東日本大震災被災地での被災者・自殺者の現状と今後を語る

パネルディスカッション「被災地区、被災者が、今 何を求めているか」

パネラー : NPO法人 自殺防止ネットワーク風 理事長     篠原 鋭一
       医療法人社団 爽秋会 理事長 医学博士      岡部  健

NPO法人 自殺防止ネットワーク風 宮城県相談所
          Café de Monk 主宰 通大寺住職  金田 諦應

篠原 それではパネルディスカッションに移ります。「東日本大震災後、自殺の現状と今後の対応」ということになっておりますけれども、基本は被災地区あるいは被災された方々が今何を求めていらっしゃるだろうか、私達が何ができるだろうかということを探っていけるようなひと時にしたいと思っております。

篠原写真

 先程金田老師がご自分の体験を映像と共に語っていただきましたが、ところどころ胸が詰まって涙を流しそうになっておられる金田老師のお姿を見て私もご一緒したりあるいは単独で動いたりして、いろんなことを思い出しながら拝聴させて頂きました。先程映像の中で石巻の洞源院というお寺様に400人の罹災者が避難をされていたという、南こうせつさんが映像で出ておられましたあそこです。

多くの被災者のお子さんそれから中高年、お年寄りまで、あの避難所のお寺の奥様がずっと様々なことをお聞きになった会話をメモしておられました。そしてそれを整理された。この度そのメモがまとまりましたんですけれども、私それを拝読しておりました。このシンポジウムを始める前に、チョッとこれひとつだけ皆さんにお聞きいただきたいと思います。タイトルはですね「おれは母ちゃんといぐ」先程金田老師がおっしゃった言葉で言いますと私達関東人からしますと「おれは母ちゃんと行く」ということになりますけれど、東北の発音ですと「いぐ」ということになるんだろうと思いますが、これは女の子の書いた詩です。詩というより聞き語りをまとめたものです。

おれは母ちゃんといぐ
父ちゃんが「おまえひとりでいげ」という。「そんなことでぎねちゃあ」といっていた。
父ちゃんはぶつだんの前に座って手を合わせた。父ちゃん「早くいげ」
「イヤダ」といって、車さ乗っていた。
大泣きしてふり返ったら父ちゃんが波にのまれていねぐなっていた。
「キャー」とさけんだが、車ごと波にとなりの家のやねさ乗せらいでいた。
車からにげだら、波にどこかの2階の押し入れのふとんの中さ、つっこまいでいた。
ポカポカじょうたいで朝陽が出た。
「父ちゃん、父ちゃん、父ちゃんありがとう。おいの父ちゃんは魚とりの名人だった」

先日まとめられた奥様にお話をお伺いしました。
「この子は孤児になりました。『おれは母ちゃんといぐ』、実はご主人の奥様はもう亡くなっていたんですね。それでもうお父さんはお母さんのところへ行ぐと、死を選ぶという。どうにもならんということだったようですね。
結局娘さんを先に逃がして、ご自分はこの言葉からすれば『母ちゃんといぐ』ということだった訳ですが、しかしお父さんが波に呑まれていく状態を見て、そして最後に彼女は訴えます。『おいの父ちゃんは魚とりの名人だった』・・・」

先程来金田老師もいくつも事例をお話になりましたが、被災地をお訪ねしておりますとこういう話は沢山あります。今の報道によりますと2,000人以上の孤児が生まれました。但し、この孤児はお父さん、お母さん、兄弟すべてを失ったということではなくて、200人強が全く一人になった。さっきの女の子のようにすべてを失ってしまった子が200人強。それで1,800人位のお子さんはお父さんが生きておられる、あるいはお母さんと共に生きた、あるいは兄弟だけで生きた。
そういう意味で、孤児とひっくるめて2,000人強。先程私は嬉しかったですね。
金田老師が、「この子達が未来だ」と仰った。ここを忘れてはいけないと思います、私達は。先程映像の中にもありました地域で私も若者と語ったことがありました。

で、若者と語った時に若者が私にぶつかって来ます。「あんたは成田から来たんだ。成田では被災してねえべよ」とバーンと来ます。「そうです。被災していません」と。「何なら分かんねえべよ。被災してねえ人間に俺達のこと、分かんねえべよ」ってこう来ます。「分からない」一人の若者が私にすさまじい勢いで「あと1ヵ月、地震と津波が遅く来てくれたら海苔の収穫できた。お金が手に入ってた。こんなに苦しまなくてよかったんだ。 そのことあんたには分かんないべよ」「分からない。申し訳ない。分からない」すると隣の若者が「俺はカキの養殖をしてた。カ キの床がどれだけかかるか知ってるか。1千万、2千万、大きいものは1億だぞ。あんた成田の人間が分かんねえべよ」と来ます。「分かりません」って。「分からない。申し訳ないけど分からない」「分からねえ人間がニコニコ来て何すんだ」って。辛いですね。その時に一緒にいた仲間の一人が立ち上がって、私に「あんたには未来がある。あんたはまもなく成田さ帰るベよ。成田に帰って職業があって、職業があるってことはお金があって、生活もできるべよ。俺達は何もねえ。俺達の未来は何にもねえ」。ここのところは私は言っておく必要があると思った。

「いやちょっと待ってほしい。私は被災はしていないけどひとつだけ言わせてほしい。それは未来はもう来ているということだ。これから来る未来もあるだろうけれども、今来ている未来があるじゃないか」「どこに来てんだ。未来なんかどこに来てんだ」皆が立ち上がった。「ちょっと待って。あなたが未来でしょ。君が未来でしょ。あんたはもう未来じゃないか。あなた達という未来が育てば、この被災地は必ず復興する」。丁度、後ろに小学生がタ、タ、タと歩いて来た。「チョッと見てご覧」と。「あそこに小学生達が歩いているじゃないか。あの子達は未来だろう。あの子達は未来だ。これから来る未来もあるでしょう。橋が架かる、電車が動くというふうな未来もあるでしょ。しかしあなた達は未来だ。もう未来が来ている。あなた達は来ている未来だ。そして後ろを歩いている小学生もすでにこ こに来ている未来だ。この未来を私達は育てなければと思って、私はここにいる」。

そしたらリーダーの青年が、彼は黙って聞いていましたが、わあ〜と泣き出して「うんだな」って。「初めて聞いた。未来は来ているんだな。俺達が未来だな」。私は嬉しかった。分かってくれて、抱き合いました。

今、日本人が忘れてはならないと思うのは、先程金田老師が仰ったように、被災地の未来が今間違いなく育ちつつあるということです。その未来は若者であり、子供達です。

この子供達という、この若者達という、この未来を私達がどう育てていこうか。本当に日本人が一丸となってこの未来を育てることによって将来があるということです。勿論これから多くの支援金、また冬になると多くのボランティアの方々、支援物資も来るでしょう。しかし、先ず人間として生きる心の力、心力と言ってもいいでしょう。それは先程金田老師が「この女の子が未来じゃ」と仰った。
このことを私達が確認できるような、これからのひと時でありたいと思います。

さて、私はコーディネーターということでございますので、これ以上お話はいたしませんが、改めてご紹介をさせていたただきたいと思います。名取市。まさに被災地にある訳でざいますが、医療法人社団爽秋会、その理事長で医学博士でいらっしゃいます岡部健先生をご紹介します。

岡部先生、遠方ありがとうございました。
先程来金田老師からいろいろお話を聞きました。ここで岡部先生がご体験になりました3月11日から今日まで、医療従事者でいらっしゃる先生にですね、現状とこれからということについて、そして私達に果たしてできることは何なんだろうか、ということをお話いただきたいと思います。
先生お願いします。

岡部先生の写真

岡部 ご紹介いただきました岡部です。 うちの診療所がちょうど例のテレビで良く出てきましたよ。仙台空港の津波。あそこから1〜2キロのところにございまして、私んところも半分被災地なんでしょうかね、そういうような状況にございました。
細かくお話をするといろいろございますけれど、ひとつだけ今回大きく感じたのはですね、実は今回の津波被災といいうことに関しては医療は非常に無力だったということです。医療スタッフが沢山出て行きましたし、地域も頑張りました。でも非常に無力だったなというのが実感です。

私、病後の病み上がりで余り私自身は動けなかったんですけれども、名取の医師会とか宮城県立がんセンターという後方支援病院がありましてそこで名取自体はかなり医療チームとしては外からのディバイドとかそういう支援部隊がほとんど入らないで済んだ位にキチッとはやったんですが、結局スタッフ自身の実際に現場に出た人間からも出てくるのは無力感ですね、医療に関してですよ。
ところが考えてみるとそうなんですよ。90%溺死ですから医療の手が及ばないままに地域だけで900人位亡くなられていますんで、救急の医療スタッフが何をやったかって言ったら、死体検案、遺体検案です。

今回の被災に関して言うと、はっきりしているのは、特に名取地域はあの辺のところだと、元気で助かっているか、亡くなっているかどちらかなんです。医療っていうのはあくまでも障害を持っていた人に対して、その状態を健康状態に復するというのが一番重要な役割ですんで、そこに関して言ったら、まあ非常に無力でもあり、それ以降も我々にどれだけの仕事ができてるかというと非常に疑問な部分が多いということですね。
その前提がですね、やはり今回本当に感じたのは、あの世に逝った人を支える医療ってないんですよ。医療っていうのはあくまで生きてる人の、目の前で生きてる人を対象にしているんで、あの世に逝かれた人ないしはあの世に逝ってしまった人を辛く思い続けているご遺族、そこをケアするってシステムは残念ながらもともと医療というのは持っていないんだということを、非常に痛感させられました。

で、金田さんがやっていらっしゃる「カフェ デ モンク」とかそういうことの、私はあくまで後方支援部隊ですけど、後で一緒に何とか協力してやっていければなと思っております。その中でひとつ気付いたのはですね、宗教者とか、医療者とかね、そういうところがちょっと壁をつくっていたんじゃないかという気がするんですよ。役割分担はもうちょっとあって良かったんじゃないかなと、被災前から…。

カフェ デ モンクの看板写真

で、宮城県とか、東北の方は割とこの通りの和尚さんがいますので、地域に対しての宗教者の入り方っていうのはキチッと残っている。金田さんがそんなに来られなかった名取地域なんかも含めて、地域の宗教者がかなり頑張れた面もあり、そういうところで何とか支えられた部分がある訳ですけど、それがなんていうか医療って普通の社会資源で考えますよね。医療、社会資源、介護も社会資源、実は宗教者だってある意味社会資源のひとつなんですよね。これは無くてはならない社会資源のひとつなんだろうと。そこがキチンとバランスがとれて使えるような社会にチョッとつくれていなかったっていうのはチョッとまずかったなというのが反省点でもあり、今後やっていかなくてはいかんことだろうなと。で、普通に医療とか、宗教っていうのは壁がない形でお互い協力し合えるような形っていうのをつくっていくのが今後のひとつの目標だろうと思います。

ひとつだけご紹介しておきますと、これついこの間、医学書院から送ってきまして、“災害時の心のケア”ってサイコロジカルファーストエイド実施の手引なんで、アメリカの国立子供トラウマティックストレス・ネットワークが、まあPTSDなんかの関連ですが、こんな中でもですね、例えばですね、開始期の被災者に対してのケアですよ。 これアメリカが世界のスタンダードとはいえないと思いますけど、一応世界的スタンダードと考えると、例えば「被災者の宗教的ニーズに対応するために現場の災害対応チームに参加している宗教者の活動や被災者を紹介できる地域の宗教団体への連絡方法を把握しておいて下さい」っていうのは最初に出てくるんですよね。
被災者が話の中で云々ありまして、だから「多くの人は宗教的な観念や儀式に助けられて大切な人の死を乗り越えて行きます」っていうその言葉自体は私が言っていることじゃなくて、スタンダードな本の中に当然入って来ることなんですね。今回の被災の中で、そういうところにチャンと繋げることができるような関係性があったかということなんです。私が今ちょっと辛く思っている。

医療者も頑張って入りました。頑張って入ったけれど、あの世に逝っちゃった人のことは医療者は支えられないの。医学部の講義にあの世の講義ありませんから。あるでしょ?無いものは教えられない。伝えることもできない。異常なものに対して、精神の異常現象に対して我々プロですけど正常な中でうんと辛い、苦しいってものに関しては、むしろ宗教者の方が歴史的蓄積を持っているし、本来強い場所なんだろうと思うんですね。ただこういうような本に書かれているような、いざ被災して誰かがいなくなった時に、例えば医療者が「ここにチャンとお渡しすれば、キチンとケアしてもらえるね」ってそういうような受け皿づくりって本来もっと前に行われてしかるべきだったんだろうと思うんですね。

パネルディスカッションの様子の写真

今回の経験から言って、そういうものをキチンと地域の中でつくっていくってことが割と大切なことだなと。特に宗教者は日本の場合いろいろ難しいこともありますんで、宗派を超えて、例えば臨床宗教家っていうような形で入って行けるようなシステムがチャンとできていれば、今回の被災の時になんかも、もっと大きな力になれたでしょうし、これからも大きな力になれるんじゃないかと思っています。それから人それぞれ臨床宗教家のような形のものが出てくればいいかなという気がします。

注) サイコロジカルファーストエイド : 大多数の人が巻き込まれる災害、大事故、テロ等が起こった時、複数の被災者、被害者の方々に対して提供できる「心のケア」
PTSD : Post Traumatic Stress Disorder 心的外傷後のストレス障害 

篠原 ありがとうございました。今非常に示唆に富んだご発言を頂戴いたしました。考えてみますと医療関係者あるいは我々宗教家のみならずあらゆるジャンルの人達が枠を超えて、この人達の問題等にどう思いを持っていくか。具体的な行動をするかということですね。

私、今回先程お話した通り、被災者ではありませんので深く思いをいたせないんですけども、とにかく現地に行ってひとつ感じたもうひとつのことは、医療関係者の方々の大変なご活躍と同時に、行政の方々がやはり全国から集まって活動しておられましたよね。
まあ、行政と言いましても自衛隊の方を中心に消防関係者、警察関係者、どの車両を見ても他都道府県の名前で、沖縄の地名が書いてあったのを見て「わーあ、良くぞここまで!」と思いましたね。金田老師、活動をなさってて、3月11日からずっと今日まで行政の皆さんとの係わりはどういう状態だったのですか。

金田 行政とは一番最初に係わったのは例の火葬場のボランティアの時なんですけれども、やっぱり行政は一宗派ですとか、特定の宗教団体のすることに関しては非常に神経質になっております。まあ、何で入れたのかなと思ったんですけれども、前々から篠原老師の「風」の自死問題で行政の方々とも一応タッグを組んでやっておりましたので、そういうところで宗派色が無いなというふうなのが感じ取られたのか、上手く火葬場の中まで入れたというのが現状です。
中にはですね、無理やり入って行って行政の方とトラブルを起こして、それ以後一切の、「超宗派ですよ」と言ったとしても、神経質になりすぎてそこでシャットアウトというのが随分今回ありましたし、そういった話題も随分ありましたね。
名取辺りはそうだったですね。まあ、気分は分かるんだけども、その辺はどんなに気持ちがあってもですね、やっぱり行政の方とキチッとその辺のコンセンサスを結べるようなこちら側の態度を、キチッとつくっておかないと駄目だと思うんですね。

先程岡部先生が言われた「超宗派で動こう」というふうなことを言われた。やっぱりそういったことは大切で、そのひとつの表れが臨床宗教家というどの宗派にも属さないで、いわゆるチャップレンっていう西洋で言ったら病院付き聖職者のようなああいう考え方だと思うんですけれども、あらゆる宗教を網羅して、あらゆる儀式ができて、どんなことでも対応できますよと、本当に臨床性の高いですね宗教家、布教を目的としない、教団に属さないというような人達の養成っていうのは非常に大切じゃないかなと思うんですね。それから医療とのその係わり合いの中で、そういった人が出てくることによって非常にスムーズな連携ができるんじゃないかとつくづく思いました。

注)チャップレン : Chaplain 教会や寺院に属さず施設や組織(軍隊、学校、病院、刑務所など)で働く聖職者(牧師、神父、司祭、僧侶)

篠原 同じことを岡部先生にお聞きしたいんですけど、先程役割分担というお話をなさいまして、医療関係者あるいは宗教関係者ということなんですけど、医療あるいは宗教関係者以外の人達とも今回様々な形で自分の役割を模索しながら、被災地に出向いて行ったり、あるいは現地で今なお活動されている方がいらっしゃるんですが、単に宗教者、医療者ということで無く全体を眺めて役割分担についてチョッとお話をいただけますか。

岡部 今回の震災ではですね、例えば宮城県ならば県という単位の行政単位はもうパンクしているんですよ、直後から。
私も直後にチョッと私が宮城県の訪問看護推進事業というのをやっているんで、そちらの方どうでしょうかということで県の医療整備課に行ったりしたんですが、もう課長の目が散瞳してましたよ。三日寝てないとかね。来るとひたすら責めあげられるとか。そういうような状況でコントロールシステム、ほとんど失っちゃっていたというのが現状だろうと思います。
行政に関してはいろんなところからのサポートチーム入っているんですよね。だから今石巻辺りにも行政のサポート入っていますよね。そういうのが入って来たにしても、地域のことが分からないですから。だからなかなか上手い繋がり合いができないという格好になっちゃって。
行政単位のことを整理してお話しすると、情報の整理、統括の仕方に尽きると思います。今回の震災に関して言ったら、地域、地域の情報を吸い上げて、整理して、しかるべきところにも戻す、そのためには一番重要なのは情報ですから。その情報の整理機能が全く未だもって整理ついていないんじゃないですかね。そこがキチンと機能したのが自衛隊だけなんですよ。

篠原  なるほど。

岡部  自衛隊みたいなああいう機能だとやっぱりそういうところはかなりしっかりしているんですね。それ以外の部分に関して言うと、かなり情報に恣意性が入っちゃうんですよ。目に付いたところと付いていないところ、発言するとこと発言しないところで非常にバラバラになっちゃう。そうするとなんていうかバランスの良いチームがつくれないということになっちゃう。だからどうやって情報を整理して、それをキチンと現場に戻していくかと、この機能をどうやって早急に立ち上げるかその一点に尽きるのではないかと思う。

篠原 あの、今日ご参加いただいている方々の中には、それぞれの市町村におきまして、ご活躍いただいている行政の方々沢山お出でになっております。後でご質問いただく時間を設けますので、そういうお立場から、また今の被災地域と行政との係わりのようなご質問がございましたら、是非お手を挙げていただきたいと思います。

少し具体的に入りたいんですけれども、震災関係自殺者数というデーターが、皆さんにお配りしてあるんですが、被災地でご苦労されている方々の精神的な状況はどうなってるか、お二人にお聞きしたいんですけれども、それでは金田老師の方から。

金田 恐らく、市によって違うと思うんですけれども、チョッとタイミングが悪いことに平成の大合併というのがあって、市町村がですね大きな単位で、例えば石巻なんかは牡鹿始め雄勝(おがつ)、石巻かなんかあの辺りがですね合併して、今回の仮設なんかも恐らくあそこ2,000戸近くありますかね、あそこのそういうふうないろんな地域の人が入って来ているんですよ。
実際あそこは4回、5回程行きましたけども、行く度、行く度、全然違うんですね。さっき言った鮎川浜から来ましたとか雄勝から、雄勝と鮎川浜はとんでもなく離れていますからまるで違う地域なんですよ。 あと、町の中から来ましたとかですね、そういうふうな形で、当初阪神・淡路の時の二の舞を踏みたくないっていって、地域ごとのことをしたんですけども、ただそうすると当然優先順位が決まってきますので、それは平等じゃないだろうという、何か訳の分からない平等感が出て来て、結局抽選ということになって、そういうふうになっちゃった。
ということで入ってみると全くその隣同士が分からない、知り合いじゃないんですよ。私達が入って、そしてお茶をあげながらお話をして、やっとお隣同士も、私達がお隣同士を繋げているようなもんで、そんな感じですね。

あるところに行った時はすごい興奮した人が来まして「俺はお袋も死んだし、弟も死んだし」。お父さんは2月に亡くなったんですけども、そのお父さんのお骨が下に1階にあって、そのお骨を持って2階の布団の中にグッと押し込んで、お父さんのお骨を守ったんですけれども、下に行ってお母さんと弟を助けようと思ったらそのまま流されちゃたというような方がいて「俺はそんな状態だから、俺はもう和尚さん危ないよ」「何が危ないの」と言ったら「これっさ」って言うんですよ。
そういうふうに言った人って絶対そうじゃないってふうな確信ありましたので、「そんなことないだろう。これするんじゃなくて、あなたは弟とお母さんとお父さんを守るという意思表示だな」って言ったんですよ。「そうだ」と言うんですね。
まあいろいろ話している内に、そうしたらその人が座ったとこの前にまた別の仮設の人がいて、「あれなんだ。どこどこの誰じゃないか」って言うような話になってですね、「もう俺は天涯孤独だ」と言っていた人が、やっと一人親戚をそこで見つけたというような、そういうふうな状況がそこにありましたね。
ですから、「何が不安だ」というご質問ですけれども、孤立するのが一番不安。孤立です、はい。もうあの4時半、5時位に帰って来るんですけれども、カフェをしてですね、あの時に私達の軽トラックを見送る時のお婆さん達の顔ね、寂しそうな顔するんですよ。“寂しい”っていうような孤独ですよ、だと思います。

岡部 孤独の問題が一番大きくて、あともうひとつ最近感じるのはですね、なんか“煽り立てないでくれ”って感じもしないですか。

篠原 “煽り立てないでくれ…”というと?

岡部 一歩引きたい時期にあるんじゃないですかね。

篠原 もう少し具体的にお願いできますか。

岡部 例えば、被災地側の方で言ったら再建計画建てなきゃいかん。確かにそうなんです。 けれども、堤防何メーターにする、堤防何メーターにしてここんとこはどうだ、ああだということはあるんだけど、ちょっとまだ心の整理が付いていないからもうちょっと待ってくんねえか」っていうのが気持ちの中にあるような気がしますね。

だからこれだけの被災状況ですから、3月やって7ヵ月でしょ。これで気持ちの整理が付いているかといったら、また今後どうするかっていうことを全部見通せるかっていったら、なかなか難しいし、半年間皆ひたすらに走っていたんですよね。
目先のことで走って、走って、生きてきた訳で、どこかで1回チョッと退いて、見直したいっていう気持ちがあるような気がします。そういう気持ちを大切にしてあげないといけないんじゃないかという気がします。

篠原 “煽り立てないでくれ”という、そういう思いが実は現地の方にあるというお話は、私気が付きませんでした。お二人のように現地にいらっしゃって、常にそういう方々と対話なさっていないとわかりません。正直言って私はドキッといたしました。

金田 傾聴でも段階があると思うんですね。ずっと話を聞く、ひたすら聞いているというのと、それからなんていうのかな、少しずつ、あの7月、8月辺りからですね、いわゆる“伴走”ってことなんでしょうか、一緒に。

篠原 “伴走”

金田 “そう”

篠原 “寄りそう”

金田 "そう、寄りそう"というかずっと聞いていたんですけど、ある時何ヵ所からですね、
「和尚さん法話をして下さい」って言われたことあるんですよ。
法話。でも、あんまりそういうふうな仮設なんかで法話なんかは本当はしちゃダメなんですよ。まあ、求めに応じられたもんで、やっぱり何か気持ちの上で変化があって、今までずっと喋る一方だったんだけども、なんか最後の一言っていうか、宗教的な根拠に基づいたですね、そういうふうな高い視点からひと言が欲しいっていう、そういうふうな動きっていうのが、7月、8月辺りから少しずつ出てきましたね。

ですから、やっぱり先程の話なんですけども、良くその空気を読み取るというんでしょうか、被災地のですね、何が欲しいのか、どういう状態なのかとか、やっぱり毛穴から感じないとなかなか説明できないものがあります。勿論避難所ですとか、仮設の雰囲気によって全然違いますので、その辺は敏感に、本当に敏感に感じ取る努力がこちらの方では必要なのかなと思います。

この間も大きな団体が子供の支援をしますと来たんですけれど、ただ、じゃあ、どういうふうに子供を今までと同じようなレベルのね、サービスとか、そういったものをさせんの、それとも…。
私はその時言ったんですよ。「ほっといてくれ」と言ったんですよ。この子達は、今この被災地で一生懸命頑張っていると。この子供達、ものが無い、いろんな悲しみが渦巻いている、それを全部毛穴から吸い取ってね、この子供達は大きくなっていくんだ。その子供達がいわゆる"未来"をつくっていくんだ。そういうものを経験した者が日本の未来をつくっていくんじゃないかなと。
「だからあまりものを与えたりね、過剰なサービスをするのは止めてくれよ」と言ったら、変な顔をしてましたけど。そういうふうな視点ってやっぱり必要なのかなと。何を私達この震災で、大人達もですね得たのか、失ったものも大きいですよ。でも得たものももっと大きいはずなんですよね。それと子供達にキチッと伝えないと駄目だと思うんですよ。

だから「こんなとこ来ないで、東京だとかあっちの方の人達に、人の命の大切さだとか、逝った命と残った命のことを、キチッとあなた達が教育するなりなんなりしてくれよ」と。
私は行ってそんなこと言うから、何時も何かあんまりお金も無い運営をしているのかなと思ったんですけれども、実はそこがやっぱり一番大切なとこじゃないかなと思います。
とにかく、命の生と死の教育をキチンと子供達にしてほしいということですね。

篠原 岡部先生、誠にこだわって恐縮なんですが、もう一度“煽り立てないで”という先程のお話で、我々日本人がずっとこの大震災に対して、日本全体が “がんばれ、日本”、“がんばれ、東日本”と大コールを続けてきましたですよね。これやっぱり“煽り”だったんでしょうか。

岡部 “煽り”って言いますかね。合理的な解決策ばかり求められちゃっているんですよ。

篠原 合理的な解決策?

岡部 津波が来る、また来るかもしれない、堤防を建てようと。避難所、どうしようと。そういう話ばっかりになっちゃってて、実は被災したということは何かといったら、圧倒的にかなわないような自然の力の中に身を伏せちゃった訳ですよ。で、その自然と人間の関係を掴みきれていないですよね。まだ距離感がつくられていないんですよ。

だから名取なら名取の地域だと、まあ、うちが海岸線から5〜6キロあるのかな。
実は近くのお寺さんに聞いたら、仙台空港や何かっていうのはうちの近所の宮司さんというところの古文書に残っているところによると、もともとは全部海だったそうですよ。海のところを開拓して、開拓して、開拓して、陸地にしてたんですね。1,000年かけて。それがまた、一発でもとの形に戻ったっていうことなんですよ。あれ見てれば分かりますけれども。昔こうだったな、昔は浜だったな、昔海だったなっていう景色が見えてくる訳ですよ。
そこの中で被災した人間にとっては頃合いを図る訳ですよ。また「どの辺まで行ったらやばいんだろうか」ってね。その時に合理的に考えれば、昔海だったところからは人間全部引き揚げた方がいいとね。そういうディスカッションしてもあまり意味がないんだろうと思うんですね。リスク背負っても、「どの変までだったら、俺行く気はあるんだ」とか、そういう話になるんだろうと思うんですよ。
だって被災したところを全部引き揚げるっていうんだったら、東京辺りの人口、ほとんど銀座から向こうは人住むなっていう話ですから。まあ、本当はそんなもんなんですよね。

あと、人工物によって、近代的な合理的な考え方によって、造られたもので目隠しされて生きて来たっていう感覚があるんですよ。ビルであるとか、車であるとか、いろんな近代的なものありますよね。あれは実は合理的で便利ではあるけれども、大きな意味での自然の流れっていうことから考えると目隠しになっているんです。

で、その目隠しになっているものがボーンと壊れちゃう位な大きな自然現象が来た時には「あ、所詮は目隠しだったな」っていうのが分かるんですよね。その時にもう1回どうやって立ち直って行くかっていうのを考え直すには、少し時間をいただかないとバランスが取れない。早くやれば早くやる程、合理的な解決策しか出て来ないんじゃないのかな。そんな意味合いなんですけれどもね。

篠原 今バランスというお話がありましたので、少し私も分かりかけてきた気がするんですけれども、実は、元自分の家があったところをずっとぐるぐる歩いておられるおばあちゃんと出会いまして「何かお探しですか」と言って近づきました。おばあちゃんがですね、実は息子夫婦が勤めに出たもんだから3歳の孫を抱っこしていたと。 「逃げろって」言われた時にお孫さんを抱っこしていたけど、結局お孫さんは海の中だと。「私は大変な罪を犯してしまった」っていう意識をお持ちなんでそのおばあちゃんと語りました。
先生の仰る大自然の力というこのことと、それからおばあちゃんの仰る「津波には勝てませんでした」というここのところの折り合いといったら、とっても被災地の方々に失礼なんですけれども、そのあたり納得というんですか、そのあたり先生どうつければいいんでしょうかね。

岡部 これは医者より坊さんの世界で、これは宗教者に我々が聞きたい。宗教っていうのは被災体験、乗り越え体験を圧倒的に持っているんですよ。近代医学ていうのは所詮百何十年しかないんですから。乗り越え体験はうんと少ないですよ。ところが仏教であれば二千何百年。大きな被災の乗り越え体験をずっと続けて、今のある宗教に無い知恵が、蓄積がある訳ですよね。
百何十年しか持っていないものと二千何百年持っている知恵とどっちが上かっていったらこれはもう決まり、決まっている話で、ちなみに近代医学ができてから貞観津波(じょうがん)級の被災はありませんから。それは、我々は科学的方法での知識の集積はやっていないんです。

篠原 なるほど。今先生がご指摘されたように、むしろ宗教家じゃないかと。宗教家はいろんな言葉を使いますけれども、例えば"無常観"というふうな、つまり「移り変わる、変化する、これも大きな変化のひとつだ」とケロッと言いますよね。しかしこれはあまりにもね、被災された方々の心には、今響くことではないんだろうと私は悩んでいるんですが。金田老師、如何ですか。

金田 それはもう私だって悩みますし、あの、さっき賢治の話をしたんですけれども、確かにここだからそういうふうな大きな視点で私だって言えるんですけれども、でも被災者の方に対してですね、「これをそういうふうな大きな宇宙の出来事だから諦めなさい、これが真実ですよ」ということは言えませんよ。それは言えない。
でもこれは、宗教者が被災した人に対する時に持って背景になければならない大切なことだと思うんです。それは無色透明、何て言うのかな。色で表わしたら“限りなく透明に近いブルー”っていうのかな。そんな感じのですね、心境、境涯を持ってそのおばあさんとお孫さんのことに向かい合わせなければとてもじゃないけれども、簡単な言葉でですね、慰めることはできない。
私はただそこにいるだけでもいいと思います。あの、悲しみに沈んだおばあさんの前にその宗教者がそのような透明性を持ってですね、もう教義でも何でもないですよ、そこに来ると。そういうふうに佇んでいるだけでどれだけ救われるのかなっていうふうに。それを感じる心っていうのが般若の智恵だと思うんですよ。それを実際に行動に移すのが慈悲の行動であると。すごく今回の地震のですね、いろいろな場面で、そのことを思いました。

パネルディスカッションの様子の写真

「あなたと私っていうのはどこかで繋がっているんですよ」と。大きな命での中のひとつで繋がっているんです。"一如"ということですよね。“自他不二”と言うんでしょうか、難しい言葉で言えば。そういう感覚がどこかにはないとやっぱりそういうふうな人の悲しみに向き合うのは、なかなか難しいのかなというふうに修行させられました。ですからこの3月11日以降ですね、読む本、読む本全部大乗仏教の原点、とか、廻諍論(えじょうろん)だとか、唯識(ゆいしき)だとかそういった本を、ず〜と、なんかそういう本を読んでるとすごく落ち着くんですね。それほど何んていうんでしょうか、修飾された教義だとか、そういったものではとてもじゃないけども説明がつかない。
もうチョッとストレートな教えっていうんでしょうかね。そういったものがコトンと入って来ないかなということで、あれ以来そういったものを探し求めていますね。

篠原 このシンポジウムの最初の頃にもお二人から出た孤立であるとか孤独ということに関して、今金田老師が仰った"そばにいる"ということ、これは孤立あるいは 孤独の中に身をおいておられるお年寄りあるいは被災地の方々を、孤立からの解放とか孤独の中からの解放へ向けていくことができるものでしょうか。
岡部先生どうでしょう。

岡部 非常に難しい問題ですね。何というか、人の繋がりってもともとあった形がここ50年、60年で壊れたもんですよね。もともとあったんですよね。

篠原 はい。

岡部 もともとあった側の方に戻らないと見えないですよね。

篠原 なるほど。

岡部 もともとあったものって何かっていったら、さっきも言いましたけども、あんまり合理的な部分でやっている訳ではありませんね。合理性とか便利であるとか、そういうものって、ある意味人と人との繋がりを壊しちゃう部分もあるんだということを今思い出させられてるといいますか。

そういう意味で言うと例えば西馬音内(にしもない)の盆踊りとか。あれすごいですよね。あれ人繋げますよね。恐らく西馬音内だけだったんじゃない、ああいう盆踊りって。盆踊りひとつとっても昔は本気で、恐らく小学校の行事になってないんですよ。本気で盆踊りやっていたんです。

金田 東北には勿論宮沢賢治っていう方が出て来た。この風土っていうのがあるんですよ、やっぱりどこか。私達も賢治を読む時にどこか共通しているところがあるなっていうふうなもので、そういったところで読み解いていくんですけれども、そういうなんか伝統のようなものがあって、例えばこの間、今先生が仰った西馬音内というところの盆踊りをうちとそれから陸前高田でやったんですけれども、800年続いているあのお祭りなんです。平安よりもチョッと前かなっていうふうな感じで、恐らく伝承800年ですので、もっと古いと思うんですけれども。半年経って追悼の供養のためにやったんですけれども、これを見ている人、踊っている人もそうなんですけれども、聖者と亡者が一緒に踊るんですよ。独特のリズムで、独特の手の感じって、ものすごく手が綺麗にこう動くんですけれども、生と死の世界が無くなるんですよね、そう見ていると。ここから亡者も聖者も無くなっていくという独特のものがあって、ああ、やっぱり東北の伝統に根ざしたこの伝承民族文化っていうのは、すごい力を持っているなというふうに思って。
丁度9月10日にやったんですけども、あの震災から6ヵ月後で、実はその日に、皆さんご存知ですか南三陸町で最後まで「津波、逃げて下さい。逃げて下さい」って言ってた女の子、“遠藤未希ちゃん”ていうんですけれど、実は彼女婚約しておりましてね、9月10日が挙式の日だったんですよ。その人の、その日に西馬音内の盆踊りをやって、そのことを西馬音内の方にお伝えしたら、本当にまれなことなんですけれども、盆踊りはこう笠を被るんですけどもね、それを取ってくれて、若い女の人で21歳の女の子だったかな、西馬音内の。取ってくれて、遠藤未希ちゃんのために踊りを踊ってくれたんですよ。それがすっごく綺麗だった。まるで6ヵ月経ってあの世から彼女が降りて来て…。本当はこんな美しいスポットライト浴びて、ひな壇に上がって、人生で一番いい時だったんですけども。
亡くなって6ヵ月後にやって来て、篝火の前で踊りを踊って、そしてまたあの世にこう帰って行く…。そのように私には読みとれてですね。すごく感激したんで、恐らく見ていた人は皆そういうふうに思ったはずです。
そういう力があるなって思います。

篠原 それが日本古来から言われる祀り事ということですよね。私もテレビでしか拝見していませんでしたけれども、祀り事というのは人間の魂を蘇らせるというふうなこと、亡き人とそれから今生きている私達とをキチッと繋ぐというふうな力があるという気がします。

岡部 ひと言いいですか。被災地に例えば介護がいるんだとか、医療がいるんだとか、物資がいるんだとか、分解しているじゃないですか。

篠原 はい。

岡部 分解して何かやったことを総合すると社会になるかというとならないですね、キッと。社会の機能を分解すると、介護的機能だ、医療的機能だ、そういうふうな話はできますけれど、分解したものを合わせて足し算すると、社会になるかというとならないし、人の繋がりにならないですよね。

篠原 なるほど。

岡部 人の繋がりになる部分って、実は今の西馬音内みたいな話で、不合理で、非定理なものをスッとマトメルようなものが始めて人の繋がりになるんで、そういう意味でも人の繋がりをもう一度再生するための宗教者の位置付けっていうのは大きいんじゃないですか。我々医療者はどちらというと合理的な部分をやっているんです。

(聴講者からの質問)
篠原 ありがとうございました。お二人から講演を含めましていろいろお話を伺いました。
余り時間が無いんですけれどもお許しいただきましてどうぞご質問のある方がいらっしゃいましたらお手を挙げていただきたいのですが。 どうぞ…。

質問者 板橋区から来た藤村というものですけども、正直言ったら今日のお話を伺って言葉にならない。何ができるのかな。何をというふうに思っています。で、方言の方もできないし、かといって、軽々に知り合いの大学生達と一緒にボランティアに行くっていうのもどうかなって。いろいろ組織をする人が友達にいますから、計画をしたり、どうしようかと考えているんですけど、私達はどういう支援が一番皆さんの方の支援になるのか教えて下さい。

篠原 良く同じような質問を頂きます。支援のメニューはいくつもあると思うんですが、一点だけ間違いないのは、一番最初にお二人がお話になったことでもありますけれども、特に金田老師がお話になった“関心”を持っていただきたい。この問題を忘れないで頂きたい。これは今日お出での皆さんは良くご存知のお話ですから、簡単に申し上げますと、マザー・テレサ女史が仰いましたよね。「愛の反対は無関心である」って。これに私は尽きると思うんです。それは支援が必要でしょう。物資を運ぶことも大切でしょう。しかし、私は唯一私達が今できることは心の中で何時でも被災地の問題に深い関心を寄せると。これがひとつ誰にでもできることである。
大変ありがたいご質問ありがとうございました。

金田 あの東京でしょうか。私が活動の場としている南三陸町は東京災害ボランティアの方が随分入っておりまして、随分一緒に組んでやりました。それぞれの得意分野がありますので、東京災害ボランティアの方は1週間交替でずっと入っていらっしゃるんですね。私達は僧侶なので1週間に1回かその位なんです。けれども、その間は東京災害ボランティアの人達がちゃんといろんな行事をやって下さっていて、私達が時々入って行ってやるって感じで、何も方言が分かんなくたって、方言は1週間位いれば大体喋るようになりますので、何ならお教えします。どんどん、もしそういうふうな気持ちがあったらですね、入ってとにかく現場に行って下さい。現場に行ってですね、現場の空気を吸っていただいて、それから考えていただいてもいいんじゃないかと思います。随分素晴らしいボランティア団体に今回支えられました、私達も。ですので、どうぞできることから始めていただければいい。

それからもうひとつはやはり絶対あの時のことを忘れないで下さい。今、絆社会とかなんとか随分言われだしているじゃないですか。あれは一体何だったのというふうに思いますね。絆社会っていうのは非常に面倒くさい社会ですから、面倒くさいですよ。もう、ギリ、スベ、"ギリ、スベ"って言ったら東北弁になりますけれども。それから冠婚葬祭、お祭りの寄付集め、そんな簡単な問題じゃないんですよ、絆社会っていうのは。そんな簡単に言うなよって言いたいです。それを我々嫌って50年経って、こんな社会にしたんじゃないかって。それを1年、2年でね、元に戻すなんてそんな虫の良い話し無いですよ。やっぱり50年、60年かかると思います。もう1回戻れますか、そういうふうな社会に。そういう社会を嫌ってみんな東京に出て来たんですよ。そして結局はもうなんか希薄な人間関係の中で、なんとなくこう一生終わっちゃってんのかな。そこまで行っちゃったらチョッと申し訳ないかな。もっとね、どうぞ、東北、沢山土地がありますから、どうぞ移住して下さい。 東北そのうち独立する予定ですので、大統領…。

篠原 最後金田老師に締めていただきました。どうか、できることからということで、無理をしない、無理をすると続きません。今日、受付の方で皆さんのお手元に小さな名刺が配られました。これは千葉県の若いお坊さん達が、ここもかなり長い間おやりになっていることですけれども、"やすらぎダイヤル、テルテル坊主"って。
"落ち込まないで、閉じこもらないで、一人で抱え込まないで、あなたの思いは一人ぼっちじゃないんだから、あなたの心が晴れますように"という、この電話相談活動をずっとやってこられている仏教団体の方々が今日ここにおいでになっています。
これもまさに出来ることからお始めになっています。全然無理してません。月、水、金でしたか、10時から4時までという。40人位の方が係わっておられます。"いのちの電話"の方々も今日お出でになっていただいていると思います。

今日のひとつの結論でございますけれども、
“できることから、そして忘れない、常に関心を持っていく、
そのことが被災者の方々へ、未来を信じさせる思いに繋がっている”

というふうに受け止めていただきますと大変ありがたく存じます。
今日は本当に遠いところまでご参上いただきまして、心から御礼申し上げます。

これをもちまして、講演会並びにシンポジウムを終了させていただきます。

会場の様子の写真

赤い羽根マーク このシンポジウムは赤い羽根共同募金の助成により開催されました。

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