自死遺族支援のためのシンポジウム ―支援のための提言―

(つづき A) 第3部■質疑並びにディスカッション   篠原 鋭一・鈴木 康明・南部 節子

南部 : ごめんなさい。ちょっと紹介したいことがあります。グリーフサポートリンクの全国センターのホームページ見ていただいたら、“大切な人を亡くした子供とその家族のつどい”というパンフレットを無料配布しているんですけれど見られたことあります。
質問者 : ハイ)
そうですか。ああいうのを参考にしていただいたらどうかな。ある人は、あれはアメリカの話じゃないかと言われる人もありましたけれども、ドナさんはアメリカだって偏見の塊だし、まだまだ遺族がこう言えるような環境ではないって仰ってますので、共有できる部分は共有してほしいと思います。

篠原 : ありがとうございました。今子供達に対しての命の教育の話が出ましたので少しだけお話をさせていただきます。
鈴木先生はグリーフケアということがテーマなんですが、今私に小中学校、高校から言われておりますのは、「命はつくれないよ」ということなんですね。タイトルは「命の不思議にありがとう」です。私達がこの世に存在するということは命がある。じゃあ、命というのはどういうメカニズムで誕生してきたか、というような話を具体的にしている訳なんですけれど、高校生が体育館で300人いるとしますね。「亡くなった人が生き返りますか」と言ったら、今30人が手を挙げます。だったら殺してもいい、傷つけてもいいという理屈が成り立ってしまいますね。中学生だと12〜13人が手を挙げますね。

これはですね、自死防止等々の教育の一環でもあるんですけれども、もっと本質的に我々がここに生存しているということは命があるということ、その命というのは連綿と続いてきた命であり、しかも命誕生のメカニズムとはとてつもなくこの地球上に38億年の歴史を持つ生命体としての我々の命であるというようなことを子供達にずっと絵解きをしていきますと、感想文にすごく新鮮な感想が現れてきます。
「私は1ヵ月父親と話をしませんでした。でも今日の話を聞いていたら、僕の私の命を与えてあるいは授けてくれたことがわかった」と書いている子供もいます。「父があって、母があってのおかげなんだ。今日から父と母に感謝をしたいと思っている」と、はっきり書くんですね。
そこで命というのは傷つけてはいけない、殺してはいけない。
自他共に、つまり人の命も殺してはいけない、自らの命も殺してはいけないという。

高校生達は「俺の命だったらどうしたっていいだろう」と言う、「勝手でしょう」と私のところに来て言う。「本当にあなた達の命なら勝手に殺してもいい命なの」という問いかけをします。命というのは実は一般的に子供をつくるといういい方しますけれど、絶対つくれません。
昔からおじいちゃん、おばあちゃんの話で、“授かる”という言い方がありましたけれども、とんでもない不思議な、不可思議な条件がずっと、つまり人間技ではない条件が整って今私がここにいる、命があるという教育をですね、もっとしたら如何かという話をしております。

来月は5校位行きますが、小学校、中学校、高校での「いのちの教育」を見直して進めていく必要があるかなと思っているんですね。
すみません、他にご質問ございますか。

鈴木 : 補足で。教育の話が出てチョッとびっくりしたことなんですけど、この教室に東京外大の時に私の“死の教育”というものを受講した人がいるっていうことで、先程声をかけていただき本当に驚きました。あの一番最初なんです。私はだから、私が初めて“死の教育”をやろうと思った時に、受講生。今の精神保健福祉士さんなんだそうです。ありがとうございます。千葉で活動されているんですか。(ハイ) だそうです。チョッと嬉しかったです。

篠原 : なんか補足の補足になりますけれど、今日皆さんにさし上げました相談窓口の手引きの最初に、“子供や若者に死を教える”ということで私が一文を書いておりますのでぜひ一度お読みいただきたいと思います。

ついでに今日、私が書きました一番新しい本(この国で自死と向き合う)で、この中にもこの問題を少し書いております。それから自死遺族の方々との対話の問題も書いておりますのでお帰り時に是非お手に取っていただきたいと思います。
他にいらっしゃいますでしょうか、もしいらっしゃらなければ、チョッと私の方からお二人の先生にお聞きしたいんですけれども、先程ですね南部先生の方が「覚悟の上の死はない」ということを言い切られましたね。「皆生きたい」というふうに続けられましたけれども、しかしこのことってすごくですね、自死のご遺族の方からも、我々が対話させていただいている立場からもとても重要なことなんで、お二人の先生にもチョッともう少しこの問題を付言いただければと思うんですね。

南部 : “覚悟の死”って全くない訳ではなくて、あるかも知れないけれども、私が聞いたご遺族の中ではなかったという話です。三島由紀夫さんはひょっとしたらね、覚悟の上だなって思いますという話。

鈴木 : だから死んだ方に伺うことはとうていできないから、当然私達は生き延びている周りの方に聞いている訳ですよね。本当に私も“覚悟”ってどういうニュアンスで仰ったのかなと思って。私の乏しい経験で言うと、ひとつの家族だけこういう形なんです。

「で、あなたたちはこのことを知った時、如何思ったの」「あ、やっぱりと思いました」という方が一件だけあったんですよね。別にそれは“覚悟”云々ということを死んだ方に聞くことはできないけれども、残された人が確認的に「ああ、やっぱり死んだかと思いました」ということありました。

篠原 : 私は先程南部さんが仰った例にお出しになった三島由紀夫さんは明らかに自らの命を自殺という言葉がまさにその通りで、覚悟の上の死を選ばれたと思いますね。
この覚悟の上の死というのは、言い換えてしまえば、自己責任という言い方になったと思うんですね。でも今、私達が対峙しているこの社会の中の死というのは、私はこれは絶対と言ってしまうんですけれども、自己責任ではないと思います。連帯責任という言い方をしています。何故か、つまり我々の責任、日本社会の責任だと。

これをですねある例で言いますと、私の寺は成田空港に近いもんですから、いろんな国のテレビ局が来るんですね、アルジャジーラが1回来たんです。中東で活躍している。それで1週間か10日いました。私はプロデューサーに「何をしに来たの」と言った時に、「こんな、世界中にこんなおかしい国はないよ」と。
「何がおかしいの」と言ったら、「年間32,000人以上の人が−いわゆるNHK的に言うと−孤独死をしていると。ひっそりと亡くなっていると。さらに日本で言う自殺という形で亡くなる方がその頃、当時3万人、去年は27,766人、彼等が来た時は3万人でしたから、そうすると合計で1年間に6万人以上の方が亡くなる、こんな国って、例えば中近東で戦争が起きたとしても1年間に6万人以上の人が亡くなる、死を遂げる国なんてないよ」と。
「きっと日本のどこかにどでかい穴が開いていてね、穴というのは日本人を死へ誘い込む穴じゃないかと。私達は、日本人を死へ誘い込んでいく穴を探しに来たんだよ」と言い切ったプロデューサーが。これはですねとっても上手い表現だと私はその時思いました。じゃあ、その死へ誘い込んでいく穴とは何か。日本のこの社会的な構造です。

死へ誘い込んでいく穴という表現を彼等はしたけれども、そういう穴をおそらく我々は日本の社会の中につくってしまったんだということが言えると私は思っているんです。その社会的な構造からくるさまざまな苦悩をいつの間にか背負わざるをえない状況が来てしまって、実は知らない間に何時か自分をどんどん、どんどん孤独から孤立へというふうに追い込んでしまって、最後にある人は実行をしてしまう。

例えば、三島由紀夫さんの場合は、明らかに個人的な責任においてきちっとけじめを付けておられますけれども、今亡くなっている方々は、先程南部先生が仰ったように、本当は生きて、生きて、生きたいんですよ。そうすると誰が死へ追いやったかと言ったら、この社会をつくっている構造が、社会を形成している私達じゃないかというこの理屈は、私はもう一度しっかりと受け止めて考えてみないと、今の3万人近くの方々の自死という本質がどこかいい加減になってしまって、結局自己責任だよと。

「死にたい奴なら死なせれば」ということになります。近頃こんな電話が私のところに月に3本〜4本入るようになりました。それは人ごとだからですよ。そういう電話を掛けた方に、「じゃあ、あなたのお嬢さんが『私は苦しいから死にたい。お母さんいいね』と言ったら『あなた死ぬことによって苦しみが亡くなるんだから、どうぞ、どうぞ』と言うんですか」と言ったら「可愛い娘にそんなこと言う訳がないでしょ」と言う。
人ごとだからなんですね。だから我々がこういう社会をつくった、そこから生まれてくる苦悩を背負って自ら命を絶っていかざるを得ない、この本質を見つめていかないと日本の今のこの自死の問題等々は、私はですね見間違ってしまうような気がして仕方ないんですね。先生方どうでしょうかね。

鈴木 : 本当に仰る通り。だから私も申しあげたように、死にたくて死んだ人はいないう。勝手に死んだ人もいないだろうと。じゃあ、何で死んだか、死ぬことによってこれでやっと何とかなるんじゃないかと思い込ませる、これ自殺じゃないんでしょていうことなんです。
それともう一転、チョッと私さっき時間の関係でスライド、スーッと飛ばしちゃったんだけど、南部さんがご紹介になったね、子ども達。小泉さんと会って、あの人達のメッセージを3つ出しているんですよ。先ず死んでいったお父さん達に「どんな理由があろうと、僕達、私達、あなた達と一緒に生きたいんだよ」これが1点。
それから自分達のあとに続いてくるかもしれない子供達に「あなた達は一人じゃないよ」。このひと言分かりやすいんですが。
もう1点あるんです。「社会が私達に無責任の無を取ってくれ」と。「何で知らん顔しているんだよ」と言う。実はメッセ―ジが3つあるんですね。まさにこれは今仰ったことだと、自分の問題ですよ。如何して人ごとのようにって思いますよ。

南部 : もう、お二人の言う通りであります。

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